興慶宮図

 この残石には「興慶宮」と「大明宮」の配置図が刻されています。この残石は、1934年、もとの陝西民政廳二門内院(現在の西安市鐘楼の西、社会路)から発掘出土しました。ちょうどそこは、1922年《顔勤礼碑》が発見された場所にあたります。
 この残石は上部は割れていますが大明宮の南宮墻が描かれています。その宮墻の中央には丹鳳門、右側に望仙門、左側に建福門が描かれ、建福門の手前の両側に百官待漏院があります。
 大明宮は、唐代には「東内」と称し、禁苑の東南にあって、南は京城の北面に接し、西は宮城の東南の隅に接していました。程鴻詔『城坊考校補記』には「百官は早朝、必ず建福門で馬を降り…元和の初め、待漏院を設置した」とあります。
 興慶宮の図は、保存が良く、非常に完整です。唐代の三大宮の内、太極宮と大明宮の規模については史籍に多くの記載が見られますが、興慶宮の規模についての記載は見つかりません。その意味で、この興慶宮図に「毎六寸折地一里」と比例尺が示されている点が注目され、重要な価値を備えているといえます。
 図によると、南宮墻には通陽門・明義門、西宮墻には金明門、北宮墻には躍龍門、東宮墻には初陽門があります。宮内には一筋の圍墻があり、北側の一角には興慶殿・大同殿・翰林院、中央に南薫殿、その右側に新射殿・金花落があります。南側の一角に花萼相輝楼・勤政務本楼、中央に龍堂、その右側に長慶殿・沈香亭があります。そして興慶宮の半分を占める大きな龍池が描かれています。
 『旧唐書』(玄宗紀)に「玄宗、睿宗の第3子。垂拱元年8月東都に於いて生まれる、大足元年西京への御幸に従い、興慶坊に宅を賜る。…この居宅には池があり、水が満々として龍のようであった」「開元16年春正月、興慶宮において聴政を始める」「天宝12年冬10月…京城丁戸13000人を雇って興慶宮墻を築き、楼観を起工した」とあります。また『新唐書』地理志にも「興慶宮は皇城の東南にあり、京城の東にあたる。開元初めに造られ、14年に至って南側が増築され、20年には夾城が築かれ、芙蓉園に入る」とあります。
 この石刻図には一筋の川が描かれ、東側から宮内に流れ込み、大同殿の北側を通って宮城の西へと走っています。仙霊門と瀛洲門の間の北側で分流し、南に下って龍池に流れ込んでいます。まさに『雲麓漫抄』に書かれている通りであり、これによりこの川は龍首渠と解ります。
 このように史書により考察すると、この刻石は、北宋の元豊3年(1080)、龍図閣待制知永興軍府事の呂大防が、京兆府戸曹参軍の劉景陽と按視邠州観察推官の呂大臨に検定させ、鄜州観察右使の石蒼舒が書いたようです。呂大防は古い図面を基に、実地に遺跡を調査し、この図を制作しました。しかし京兆府学教授邳邦用が皇慶元年(1312)に著した『長安志図』の跋文によれば、宋末元初の戦乱で失われたとあります。その興慶宮図が600余年を経て、ほぼ完全な状態で出土しました。まさに貴重な歴史資科といえます。