趙子昂八札

 趙孟頫(1254〜1322)は、元代前期の文人です。あざなは子昂、松雪道人と号し、また斎室を松雪斎と名付けました。呉興(浙江省)の人で、文敏と諡されました。宋の太祖の4男、秦王・徳芳の末裔で、南宋の孝宗の実父子偁の5代の孫にあたります。
 幼少より聡明で、若くして真州司戸参軍戸なりましたが、彼が26歳のとき宋は滅亡し、その後は世事から離れ、自分のしたいことをしてのんびりと暮らす生活に入りました。
 元の世祖フビライ汗は、元に反感をもつ南宋の移民に対する懐柔策(相手に何らかの利益を与えて、手なずけるやり方)として、名望のある賢人を捜し官位につけようとしました。子昂はそうした候補者の筆頭として世祖フビライ汗に引き上げられ、至元24年(1287)に兵部郎中を授けられました。
 その後は順調に昇進し、延祐3年(1316)には従一品の位である翰林学士承旨となりました。世祖・成宗・武宗・仁宗・英宗の5朝に仕えましたが、とくに仁宗には寵愛されました。仁宗は孟頫を呼ぶとき、名ではなく子昂とあざなで呼んだといいます。
 延祐6年(1319)、病床の妻を郷里に送る途中、その死にあった彼は、郷里に引きこもり、上京せずに亡くなりました。ときの英宗は彼に江浙行省平章事を贈り、魏国公に封じ、文敏と諡しました。
 子昂は、絵は山水・竹石・人馬・花鳥いずれもよくし、画壇への影響力は著しいものがあります。書は、篆・楷・行・草の各体をよくしました。彼は王羲之・獻之父子の典型を学び、その精到さにおいては他の追随を許しません。才能によるところもありますが、一日に10000字を書いたというたいへんな練磨の結果でもあります。彼の書壇への影響力も絶大なものがあります。事実、次の時代の董其昌が痛烈に批判するまで、「学書者は彼により晋への復古の術をとりもどした」というように、元の書壇の大勢は彼の影響下にありました。