祝允明草書楽志論

 祝允明(1460〜1526)は、明代中期の書家で、長州(江蘇省)の人です。あざなは希哲。号の枝指山・枝山は、右手の指が1本多かったためといいます。また、官職にちなんで祝京兆とも呼ばれます。
 沈周・呉寛の後輩で、やや後輩の文徴明とともに蘇州の書壇、ひいては明代中期の書壇を代表する1人です。書画の文徴明、画の唐寅、詩の徐禎卿とともに呉中の4才子として高い誉れがあります。
 彼は、すでに5歳のときには、書物は一目で数行を読み下だし、30pを超える大字を書き、9歳では素晴らしい詩を作ったといいます。評判は早くから高まりましたが、32歳のときに郷試に合格し挙人となったものの、その上の進士の試験には落第し続けました。
 正徳9年(1514)に興寧県(広東省)の知事となり、しばらくして応天府通判に転任したものの、まもなく退職して帰郷し、懐星堂を建てて、ふたたび文墨に親しみ交遊にふけり、5年後に没しました。
 興寧県知事として盗賊30人ほどを一網打尽にするなど真面目に勤めましたが、平素は放蕩な生活で、金が入ればすぐ遊興で使い果たし、借金取りの列を引き連れ得意げに闊歩したといいます。
 また、横暴な役人が農夫をいじめているのを見て、孔子廟に誘い込んで殴り倒した、という話まで、逸話に富んでいます。
 後世から不良のはしりとして非難されましたが、彼の放蕩無頼は、俗物や偽善、また形式にしばられることへの反抗からくるもので、偏屈でもなければ世間嫌いだったわけでもありません。話も判り気前もよく、ときには化粧して役者顔負けの妙技を披露したり、また容易に手に入れられなかった彼の書も、ちょっと彼のなじみの妓女に頼めば入手できたという粋人でもありました。いわば最大の文化都市・消費都市である蘇州と、天下泰平の時代からなる風気の申し子で、たいへん人気者でした。
 彼は終生、臨書を怠ることがなく、魏晋から元の趙孟頫に至るまで臨摸しないものはありませんでした。また、宋代中期に書は破壊されたとする古典主義でした。しかし、趙孟頫に対しても奴書であるとして高く評価せず、晋人の風韻を追及しました。
 一方、文徴明の子の文嘉は、「彼の出現により蘇州書壇ははじめて晋の書を学ぶことを知った」と褒めています。