東坡帰去来辞詩刻石

 蘇東坡(1036〜1101)は北宋後期の文人で、名は軾、あざなは子瞻、東坡居士などと号し、文忠と諡されました。眉山(四川省)の出身です。
 彼の詩は宋代第一とされ、文はその師の歐陽脩や父の蘇洵、弟の蘇轍とともに、唐宋8家の1人で、その作「赤壁賦」は誰もが知るところです。
 書は後輩の黄庭堅・米芾とともに従来の面目を一新した北宋書壇の大御所であり、絵も竹を画いて有名です。
 蘇東坡は嘉祐元年(1056)、父の蘇洵に従って上京し、翌年に弟の蘇轍とともに進士となりました。この時の試験官が歐陽脩でした。政界では司馬光の旧法党に加わり、王安石の新法党との党争に敗れ、地方官に転出しました。元豊2年(1079)には朝廷を誹謗したかどで100日間の獄中生活を味わされ、のち黄州(湖南省)へ流されました。
 流罪地の黄州では、荒地を借り受けての自給生活でしたが、農事を楽しみ山林に遊び、仏寺の静寂な境内で思索するなど、わずらわしい政界から独立した私生活に人生の喜びを得ました。
 元豊8年(1085)3月5日神宗が崩御しました。そして哲宗が即位し、旧法党が復活すると、中央政界に復帰し、翰林学士兼侍読学士となりました。まもなく司馬光が歿し、旧法党が3派に分裂しました。この蜀党となった彼は、党争に敗れ、ふたたび地方官に転出しました。
 元祐7年(1092)中央に戻り、礼部尚書兼端明殿・翰林侍読両学士を勤めましたが、紹聖元年(1094)以後、権力をもった新法党により弾劾されて恵州(広東省)へ、さらに昌化軍(海南島)へ流されました。元符3年(1100)徽宗が即位して大赦をうけましたが帰京の途中で病死しました。
 彼の書は、元豊2年までの第1期、黄州へ流されてから元豊8年ごろまでの第2期、紹聖8年の左遷以後の第3期、に大別できます。
 第1期は、王羲之の《蘭亭序》を学んだといわれ、治平4年(1067)には《蘭亭序》の摸刻の跋を書き、綿密な考証をしています。また「書を学ぶには小楷から始めるべきだ」といっていますから、晋唐の小楷を学んだと思われます。
 第2期は、唐の顔真卿・五代の楊凝式を学んだ時期で、唐の徐浩・李邕に似ていると評されました。この時期の作風は、自由でたくましい行草です。
 第3期の書は伝存するものはあまりありません。「肉は豊かで骨は勁く、態は濃厚で意は淡泊」と評されています。
 書論においても屈指の人で、人格の立派さが書に表れるとした歐陽脩をうけて、その重要な要素とし、「神・気・骨・肉・血の5要素が備わらなければ書にならない」と論じ、自然な人間性が表面にあらわれるのを重んじて「はじめから上手に書こうと思わないのが良い」と述べ、さらに「自分はそれほど上手ではないが、創意を出して古人の真似をしない。これが自分でも痛快に思っているところだ」と、清新な創意を出すべきことの理論を展開し、北宋書壇をリードしました。
 この碑は、元豊4年(1082)書かれたもので、第2期の特徴を良くあらわし、自由でたくましい行草です。