黄庭堅詩

 黄庭堅(1045〜1105)は、北宋後期の文人で、あざなは魯直、山谷・涪などと号しました。分寧(江西省)の人。治平3年(1066)の進士で、のち秘書省校書郎となり、『神宗実録』の編集にたずさわりました。
 しかし、紹興元年(1094)に、事実をありのままにしるした記録文書(実録)中で、新法党を非難したかどで涪州に、続いて黔州・戎州(いずれも四川省)へと左遷させられました。一時は徽宗の即位による大赦で荊南(湖北省)に戻りましたが、ふたたび宜州(広西省)・永州(湖南省)へと左遷され、不遇のまま亡くなりました。
 詩は江西詩派の開祖であり、書は宋の4大家の1人で、蘇軾・米芾とともに、北宋の強烈な新書風を代表する大家です。また禅学にも造詣が深く、禅家の墨跡へも大きな影響を与えました。蘇軾とは、詩をやりとりした仲で、蘇門4学士の1人です。『宋史』(本伝)には、「行草を善くし、楷法自ら一家を成す」とあります。
 人となりは歴代を通じての24孝の1人に数えられる模範生で、辺境で文墨のあいまに農事を楽しむ穏やかで心優しい人でしたが、自己に対しては修行者のような厳しさをもち、書に対しても自己反省を繰り返しています。
 彼の言によればその書は、少壮時代・元祐時代(42〜9歳)・紹聖(黔州)時代(50〜3歳)・元符(戎州)時代(54〜6歳)・崇寧(荊南)時代の5期に大別できます。
 少壮時代は「王羲之風で名のあった周越を学んだため、20年間、草書は俗気を免れず、そこで楷書を書くことにした」、元祐時代は「楊凝式に肩をならべると自負していたことが用筆を知らず、思えば冷汗もの」と述べています。
 紹聖時代には相当に自信を持ち、草書三昧を得たと自認しましたが、その時代さえも次の元符時代に「書のひよわさが自覚できなかった」と反省しています。この元符時代は、悟るところが多く、「書も巧より拙の多いことが肝要」「索靖の銀鈎蠆尾、王羲之の錐画沙・印印泥、顔真卿の屋漏痕、張旭の折釵股、懐素の飛鳥出林・驚蛇入草はすべて同じ」と述べ、「このころの書は、悟り得た書だ」とも言い、元祐時代との違いに自信を示しています。
 また彼は、蘇軾らに指摘されている俗気からの脱却に苦慮し、顔書を王羲之の伝統を受け継ぐ俗世をぬけ出ている書としました。