彦修草書帖

 彦修という僧についての履歴は不詳です。この刻石の跋文によると、乾化中(911-912)の人といいますから、五代の後梁の人と思われます。やはり懐素のような書僧だったようです。そして約100年余りを経た嘉祐3年に、李丕緒によって刻されました。
 李丕緒は、宋の仕衡の子で、仁宗のとき尚書虞部員外郎官を辞して就養していましたが、父の死後、司農卿に至りました。彼はとくに廉清をもって称せられ、家に図書が多く、歴代の石刻を好んで集め、数100巻を蔵していたと伝わっています。
 彦修の書は、院体と呼ばれる静止的な硬化した形式美の追及ではありません。骨法と韻致を重んじ、用筆の修練に、あるいは書学に、深くて謹厳な基盤をもって自由な自己を表現しようとしたものです。単に狂怪な書として止まるものではありません。そこには中唐以来、張旭や懐素を受け継いで、脈々と続いた狂草の底流がうかがえます。同時に、人間的な姿を表現しようとする宋代の新しい書への発展の契機が感じ取れます。