断狂草千字文

 張旭は、あざなを伯高といい、呉郡(江蘇省)の人です。左率府長史を勤めたことから張長史と呼ばれました。陸柬之の子の彦遠の甥にあたり、彦遠から柬之の書法を授かったといわれています。はじめ常熟尉となり、のち長安に出て、李白・賀知章・顔真卿らと交わりました。酒を好み、酔後、大声で叫びながら狂走して下筆し、あるいは頭髪に墨をつけて書いたりして、神変不測の狂草を始めたので、世人は彼を張顛と呼んだと伝わっています。
 張旭については、生没が不明なばかりか、その経歴についても正確なことは分かりません。ただ、彼が交わったといわれる人々の顔ぶれを見ても、またその作品として伝えられているものの年記から考えても、玄宗時代を中心に活躍した人であることは間違いありません。また、徐浩・顔真卿も彼に筆法を授けられたといい、懐素・高閑も彼の草書の影響をうけたといわれています。これほどの人物でありながら、その作品として信頼できるものはほとんど残っていません。
 碑林に残るこの刻石には款がなく、しかもいつ誰によって刻されたのか不明です。この千字文は西安学府の名をとって「西安本」と呼ばれています。
 その書は、龍が天に上り虎がうずくまっているように奇怪百出し、左右上下に流れる線が空間を泳いでその空間を抱くように感じます。また1字1字は形にとらわれないで、その情熱をテンポの速い筆にのせてほとばしらせ、情趣や甘さを吹き飛ばし強烈な意欲をぶつけています。時には法度の外に出ているかに見えますが、よく見ると1点1画が規矩にのっとり、草聖の称にそむいていません。しかも後人の模擬がゆるされない作品で、紙面にみなぎる気力・気慨が私たちの共感をよんでいます。
 また、張旭の書法は徐浩・顔真卿に伝えられ、徐浩はその子徐堯に伝え、徐堯は韓方明に伝え、韓方明はこれをわが国の空海に伝えました。このことは『弘法大師書流系図』に明記されています。張旭の書法は海を越えてわが国においても盛行をみました。