慧堅禅師碑

 慧堅禅師は、碑文によると、俗姓朱氏、陳州淮陽の人です。漢の左丞相の裔孫で、唐の金吾将軍の第3子とあることから、朱博の末裔と思われます。『新唐書』の宰相世系表に、右金吾将軍・先沢とあるのが、父のようです。若くして俗学を師とせず、仏門に入って各地を巡り、のち長安に帰って化度・彗日の両寺に住みました。大歴中、代宗は聖旨をもって招聖寺に移居させました。代宗・徳宗の二代にわたって親信され、禁中に出入りしています。貞元8年(792) 74歳で入滅しました。
 碑文の撰者徐岱は、あざなを処仁といい、嘉興の人。家は農家でしたが、学を好み、校書郎より累進して、水部郎中となり、皇太子や諸王の侍読となりました。ついで給事中を拝し、史館修撰を兼ね、50歳で亡くなり、礼部尚書を贈られました。唐書本伝に「恩遇無比」と書かれているほど、たいへん忠謹な人であったといいます。
 書者の孫蔵器は、史伝に名を止めるほどの人物ではありませんでしたが、かなりたくさんの碑を書いていることから、当時能書家として知られていたようです。その書は、唐代の官民の間を風靡した、「集字聖教序」の法を実に良く体得しているといえます。じっと見ていると、これは「蘭亭叙」、これは「奉橘帖」というように、その字の出所を指摘できるものが多くあります。実に良く、忠実に模倣され、王書の集字かと見間違える程です。
 この碑は、発見が新しいため、一般に知られていませんが、久しく土中にあって風化をうけていないので字画がはっきり見え、行書の手本としても良いと思います。