智永千字文碑

 智永(生卒不明)は、王羲之7世の孫といわれ、隋時代に長安の西明寺に移り、世に永禅師といわれた僧侶です。智永が、まだ呉興の永欣寺に住んでいた頃、彼の書を求める者が絶えず門前に群がり、そのため門に大穴があいたので、鉄板で門を保護したといい、以来「鉄門限」というあだながつけられました。
 智永は、陳から隋の時代に活躍し、100歳近くまで長生きしたと伝えられ、特に永欣寺の閣上に30年間も籠り《真草千字文》800本あまりを書き、浙東の諸寺に一本ずつ施した、という話は有名です。しかし、その真蹟本はほとんどが散佚してしまい、わずかに谷氏本と称されるものが残されているにすぎません。が、その幾つかは刻本として見ることができます。
 真蹟本 (谷氏本・小川本)−日本に伝来し江馬天江、谷如意、小川簡斎らの手を経て、国宝となっています。しかし、唐写本という説もあります。
 関中本 −宋の大観3 年(1109)に薛嗣昌が長安において刻したことから関中本と呼ばれています。これを重刻したものがこの碑です。
 宝墨軒本−明末に「快雪堂帖」の刻者である劉光暘が刻したもの。欠字が多い。
 龍師起本−先頭部分がなく、「龍師火帝…」より始まっていることから、この名があります。明末、清初ころの刻本と思われます。
 玉煙堂本−明の「玉煙堂帖」に刻されているもので、真と草を別にしています。
 智永は、王羲之の《千字文》を臨書して勉強したという話もあり、王羲之の書の研究にも重要なものとなっています。智永は血筋でも、書の系統でも、王羲之の正統を受け継ぎ、その温雅な書風は、唐時代への架け橋となりました。
 こうしたことから、《智永千字文》の拓本は非常に多く流布し、翻刻本も上記のようにたくさん作られ、草書の基本テキストとなりました。そのうえ石質が非常に良く、あまり損傷することなく、現存しているのは嬉しい限りです。
 この碑も裏表に展示されています。そのため碑陽は壁に面し、幅が狭くて写真も撮れません。碑文は、碑陽に6段、碑陰の1/3に2 段、それに続けて薛嗣昌の跋文があります。その下1/3ほどの中央部には上段に跋文、その下に朱集義の三字箴《忍黙勤》が刻されています。