大観聖作碑

 大観とは、北宋の第8代皇帝徽宗の時代の年号(1107〜1110)で、聖作とは、皇帝の御製をいいます。
 碑文によると、王安石が富国強兵を目標に改めた革新政策の1つである官吏登用試験の法「三舎法」に加え、「八行八刑条例」という官吏の任用に8つの善行(孝・悌・忠・和・陸・姻・任・恤)を条件とする制度を定めました。これを皇帝自ら書して石に刻し、長安の西、興平県に建立したのがこの碑です。そして、同文の碑を他の郡県にも建てさせました。
 『宋史』(哲宗紀)によると、「元符2年(1099)11月乙未、諸州に詔し、教授者を置く。大学は三舎法により生徒を選び、昇補を考える」とあります。「三舎法」とは神宗(1068〜1085)以来の学校制度・選人制度の具体的規定です。これによると、初めて学に入る者を外舎といい、外舎から内舎へ、内舎から上舎へと昇格しました。外舎・内舎・上舎と呼ぶことから、三舎と称されたと思われます。また『宋史』(哲宗紀)によると「三舎法を行い、大学を始定する、外舎生2000人、内舎生300人、上舎生100人」とあり、人ごとに一経を治め、月々その業を試験し、順次に舎を昇格させました。そして上舎の者には、発解および礼部式・召試が免ぜられ、及第を賜りました。
 徽宗(1082〜1135)は名を佶といい、第6代皇帝神宗の第11子で、兄の哲宗が崩じて子がなかったので、元符3年に即位しました。彼は、政治は蔡京に委ねて放任し、道教を尊崇して盛んに土木を起こして人民の恨みをかい、遼と戦って破れ、ジュルチン(女真)族の金に侵入されて捕虜となり、北満の五国城の配所で崩ずるなど、皇帝としては落第生でした。
 しかし、一方で文雅を好み、書画を良くしました。また、古今の名蹟を集めて『宣和睿覧集』と称し、『宣和書画譜』を作るなど、無比の風流天子でした。書は初め唐の薛稷を学びましたが、その後は独自の書、すなわち「痩金体」を完成しました。この碑は痩金体の代表的なものです。この細くて力強い、一種特徴のある書体・痩金体は、帝王の書として後世にまで影響を与えて、金の章宗もこの体を模倣した書を残しています。
 その碑文の上の碑額に、宰相の蔡京(1047〜1126)に命じて題額を書かせました。
 蔡京は、字は元長、興化軍仙遊(福建省)の人です。崇寧元年(1102)、宰相に抜擢され、以来、前後16年近くも政権を担当し、政界に根強い勢力を植えつけました。新法党の首領として旧法党の弾壓を行い、施策の上でもいろいろ新しい企てを実行して、非難をうけたことが少なくありませんでした。蔡京の本領は政治家としてよりもむしろ文化人として発揮されました。徽宗に帝王としての奢侈を勧め、自らも贅沢な生活をして時人の悪評をかいました。しかし、この奢侈贅沢そのものが、実は当代文化の興隆に寄与する性質を持っていました。彼自身もまた、この豊かな空気の中で文化事業に尽力することを忘れませんでした。
 彼が徽宗の信任を得たことは非常なもので、両者の交わりは君臣の隔たりを越え、徽宗の書画に蔡京が題跋を書き、徽宗御製御書の碑文に臣下である彼が額を書く、という破格のことも何ら不自然でなく成されていました。
 蔡京は初め弟の蔡卞と同郷の先輩蔡襄に筆法を受け、のち蘇軾と知り合って共に徐浩を学びました。その後間もなくこれを捨てて沈伝師を学びました。元祐の末、沈伝師を嫌って歐陽詢を学び、やがて二王に深く傾倒したと、蔡京の季子蔡絛の『鐵圍山叢譚』に書かれています。『宣和書譜』は、蔡京の書を評して、その字は厳にして拘せず、逸にして規矩を外れず、といっています。なお、碑文は幅8.8pの花唐草と、龍による帯状模様で囲まれています。