李愍碑

 この碑は李愍の勲労を称えて建てられました。宋代の金石録などの著録に見えないことから、宋代頃すでに土中に没したと考えられます。
 李愍はもと隴西の李氏で、曽祖父は県令、父は刺史となっています。隋は天下を統一するに当たって、辺陲を掃蕩しました。そのため成年の人は乱離のために死に、童稚は囚われの身となり、往々にして去勢され、宮廷の人となりました。李愍も隋の大業年中(605-616)に「起家事元徳太子」とありますから、そうした一人と思われます。
 筆者の裴守真は、絳州稷山の人で、進士に挙げられ、永淳年中(682) に太常博士となり、天授年中(690-691) に成州刺史となり、長安年中(702-705) に亡くなり、戸部尚書を贈られました。
 この碑の文字を見ると、いかにも初唐の風韻があり、一字一字の造形は着実で厳しく、虞世南の書風に近く、平淡な趣があります。点画には力を充実させて重みを持たせ、線は一般に縦画を太くして意思的な強さがみなぎっています。縦横画の左右の払いは、筆を抜く瞬間まで、あるいはその先までの勢いを感じます。裴守真の30歳前後の書と思われますが、彼の年齢からしても、なかなかしっかりしたものといえます。