広武将軍曾孫産碑

 《広武将軍曾孫産碑》は、明代以前の金石に関する書物には著録がありません。清代に至り、多くの学者・金石研究家がこの碑を探しましたが、見つかりませんでした。民国9年(1920)、陜西省登城の雷召卿が、陜西省白水県史官村の蒼頡廟壁上から、やっとこの碑を発見しました。
 たちまち商人たちが紛ってここを訪れ、争って拓本を取りました。初拓本の値は千金といわれ、比較的に多く世に出回りました。
 《広武将軍曾孫産碑》は、およそ1600年前、陜西省白水県宜君地方の胡人(匈土)の境界を示すために、前秦の建元4年(368)に建立されました。
 碑文には、まず祖先の出自を述べ、ついで本人の政績と閲歴とをあげ、終りに数人の将軍の官名とともに、自己の管轄区域の境界および官下の人戸・官吏の数などを記しています。
 おそらく管轄区域を相接する将軍たちが、たがいに境界を協定し、広武将軍曾孫の産がこれを石に刻して後の証拠とするとともに、自己の功績を記したもののようです。
 碑頭はなく、尖首平頂の形をしています。碑額には「立界山石祠」とあり、表裏両側すべてに刻されています。
 建元4年(368)は前秦の苻堅の年号で、東晋の海西公司馬奕の太和3年にあたります。王羲之が永和9年に書した《蘭亭序》から15年後になります。碑文の最初に「…建元四年歳在丙辰十月一日…」とあることから、かつて武億は、萬斯同の『歴代紀元彙攷』にこの年を戊辰としているのは誤りではないかと指摘しましたが、《ケ太尉祠碑》には「…建元三年丁卯…」とあることから、《広武将軍曾孫産碑》は撰文者の誤記だろうというのが定説となっています。
 《広武将軍曾孫産碑》は風蝕剥落が激しく、下半がほとんど欠けていています。碑陽の上半にしても、その中ほどのところが剥げてしまって、文字が見えません。碑陰も中央から剥げてしまっています。しかし、ところどころ微かに見える文字は、線が痩せ細っていますが、筆跡は清くはっきりしており、保存も完好です。この碑の碑陽・碑陰には升目が引かれ、碑首の陰面には15行の題名が、両側の碑側には均衡構成の配置で部将の姓名が刻されています。
 書体は、八分と楷書の混合書体で、むしろ楷書に近い粗野な感じのするものです。中国では、この碑を草隷(隷書のくずれたものを示す書体)としています。
 碑陽の文字はさすがに丁寧に、しかも堂々とした筆致を示しています。しかし碑陰や碑側の題名は、かなりわがままに升目を無視するなど自由な書き方をして、どことなく野性味を漂わしています。前秦といえば、チベット族の氏族である苻氏の建てた国、そのイメージをより鮮明にかもしだしてくれる、そんな表現に感じます。
 胡人の碑のせいか、末の銘文に対して「銘曰」の二字がなく、碑文の体例に合いません。また「部大」というこの地方特有の官名や、「夫蒙」という羌族の姓なども見られます。
 康有為は、張鵬が所蔵する初拓本の跋文に、「最近出土した北碑のなかで、この碑は古雅第一である。…字の多くは隷書で、《中岳嵩高霊廟碑》の先駆けをなすものであり、《好太王碑》と並び称される。…碑陰の字は《流沙墜簡》に似て、古逸さらに異なり。…この碑は陜西省にあって関中地方の楷款の第一等である。」と褒めたたえています。于右任先生も同様に評価され、また中村不折先生は、この書を愛し、この碑の筆致を取り入れたといわれています。
 《広武将軍曾孫産碑》は、楷書成立の道程を知る重要な資料でもあります。漢隷の書体が解体した4世紀末、南方では王羲之・獻之に代表される行草書が完成しました。その時期にあたる建元年間、北方では隷書とも楷書とも見られる、しかも行書の意趣を具えた、このような書体が、民間の碑刻に見られることはきわめて注目されます。
 この碑には書者姓名が見られませんが、《石門頌》のような漢隷の遺風を引き継ぎ、《中岳嵩高霊廟碑》に至る草隷体を範畴する際の規範となるものです。