暉福寺碑

 北魏の王遇(慶時)の造営した暉福寺に建てられた碑です。王遇は、孝文帝および宣武帝のときの宦者で、『魏書』(閹官伝)に伝記がのっている人物です。もと李潤の羌族で、優遇されて高官にのぼり、宕昌公の爵位を受けました。
 碑文には、皇帝・皇太后の徳をたたえ、建碑者の王慶時(遇) の功績を述べたあと、3年間の歳月を要して二聖(孝文帝・太皇太后?)の三級仏図を造った由緒が書かれています。
 仏図は梵語の音訳で、普通は浮図と書き、仏の意味と、塔の意味がありますが、ここでは塔の意味です。浮図は、必ずしも仏骨を埋めたところに建てられたものばかりでなく、塔を建てることをもって功徳としたものもありました。塔の形には、三級・四級・七級・九級などがあり、また刻文には三面刻・四面刻・五面刻あり、その文には記・頌・銘・題・賛などがあるといわれています。
 題額の「大代」とは北魏のことですが、この碑の文字は龍門開鑿の数年前でありながら、龍門造像記の強さ・鋭さとは、ほど遠い感じがします。意外なほどに穏やかで、線の太細の変化がなく、起筆・終筆なども優しく柔らかで、筆致は安定し飾り気のない淡々とした楷書です。全体として、文字は方形に近く感じますが狭苦しさはありません。おおらかで豊麗な味わいがあります。
 また、北魏の異体字も多く見られます。このことから、南朝人の影響のもとに北朝人が書いたものか、逆に北朝に来た南朝人が異体字を使用したのか、いずれにしても異体字の研究に一つの資料を提供しています。
 碑文の撰者は不明ですが、北魏の駢文としてめずらしい遺品であり、朝廷の崇仏のさかんであったこのころの現存する碑のもっとも古いものの一つとしても貴重な資料です。
 この碑には「碑一次を拓すれば、地方数年雨降らず、あるいは村中幼童死すこと多し」という迷信があり、郷人は碑の字画に油灰を塗り、模拓を禁じ、官憲がこれを求めても群起反抗したほどで、精拓本は希少だったそうです。ところが民国8 年(1919)に、従軍中の李涵礎が偶然に金石に談及し、これが契機となって禁拓のこの碑が、県城の勧学所に移され、それ以後は容易に拓本がとれるようになったと伝わっています。
 碑陰には、王遇の一族の官銜と氏名が掲げられていますが、8 行、行10数字あるだけで、下半分は残闕しています。