熹平石経周易残石

 熹平4 年(175)3月、時の漢の霊帝が「諸儒に詔して、五経文字を正定せしめ、石に刻して大学門外(洛陽)に立てた」ということから、「熹平石経」とも呼ばれています。
 石経とは石に刻した経典をいい、今まで伝えられた経書の誤りを正し、新しい標準のテキストを作りました。それには、儒家・仏家・道家の三種類がありますが、儒家で最も古く、かつ書の研究上も重要な資料なのが、この石経残石です。
 蔡邕伝には、「碑が始めて立つに及んで、これを観視および模写するもの、車乗、日に千余輌、街陌を填塞した」と書かれています。当時の有様が目に見えるようです。同じ蔡邕伝に「邕すなわち、自ら冊に書し、碑に丹し、工をして鐫刻せしめた」とあります。このことから、古来、熹平石経の文字は、蔡邕の書と見なされていますが、残石を見る限り必ずしも同一ではないようで、また書風の違うものも混ざっていますから、あるいは一部を蔡邕が書いたのかも知れませんが、全部蔡邕の書とすることはできないようです。
 石経は、隷書といっても、当時の刻石に多く用いられた八分体で書かれています。「開成石経」の楷書もそうですが、見易く読みやすい書体で、文字を正しく書こうとしているように見えます。結体はがっしりとして、点画の太細の変化も波法の強調もなく、金言実直そのもので、あるいは表情に乏しい書ともいえます。
 石経は幾多の喪乱にあって、完全に破壊されてしまいました。近年おいおいに出土し現在は、魯詩・尚書・周易・春秋・公羊・儀礼・論語などが発見されています。その中の「周易」の1石が、この残石です。