蒼頡廟碑

 この碑は、蒼頡の記念碑です。蒼頡は黄帝の史官で、漢字の創造者と伝わっています。許慎の『説文解字』序によれば、蒼頡は伏犠の八卦を一歩進め、鳥獣の足跡の形を絵に描いて、さまざまな事物を区別する符号(文字)を作ったとされます。
 鳥類の足跡に酷似した刻画符号は、山東省滕県の北辛遺址(大汶口文化遺址の下層)から、1978〜1979年の発掘調査の際、残器底部と腹部の陶片から発見されました。半坡・姜寨遺址の刻画符号よりも400〜500年もさかのぼります。その後、1982年に発掘された老官台文化の白家村遺址からもこれに近似する刻画紋・彩陶花紋が出土しました。
 しかし甲骨文字を見てもわかるように、漢字は古代の群衆によって作られたもので、一個人の創造によって作られたものではありません。また、ハングル文字のように、使用文字の決定は、その文明にとっても重要な政策の一つです。こうした意味から、蒼韻は古代の文字を整理した代表的な人物と思われます。
 甲骨文字以前の文字としては、紀元前1950年頃と推定される淮河下流域の江蘇省高郵市・龍虬庄遺址の刻画陶片、黄河下流域・山東省丁公村の古城跡(山東竜山文化期)出土の刻字陶片、長江下流域の良渚文化圏(江蘇・浙江省)から出土した壷など数点の土器に見える線刻などが知られています。特に丁公陶文は、馮時先生が「山東丁公龍山文化時代文字解読」(『考古』1994-1)という論文で「古彝文」と解読され、甲骨文字とは発展的連続性は認められないとされています。
 また、夏王禹が湖南省山(現在の新陽の北)に巡回したとき岣嶁峰の石に大洪水を治めた功績を記したという《岣嶁碑》も、碑林第五室にあります。
 蒼頡の時代、すなわち三皇五帝時代の存在自体、認める者はほとんどいません。しかし近年、長江流域の発掘調査が進み、良渚文化の遺品に殷の青銅器に刻されている饕餮紋が見られるなど、注目が集まっています。また、日本の三内丸山遺跡出土の米のが良渚文化の米と近似していたり、縄文人のDNAの一部が良渚人と一致するなど、考古学のめざましい研究成果が発表されています。
 私は、良渚文化の玉j・玉鉞・玉璧は、大汶口文化灰陶尊図象記号に通じると考えます。大汶口文化から河姆渡文化・良渚文化に継承されたと思われます。そしてそのルーツは、あるいは仰韶文化泉護村遺址出土花弁図案土器にみえる月に梟(鴉)を図案化した紋様かと考察します。
 「日中有踆烏」という伝説では、太陽があって、その中には烏がいます。この伝説の基となった図象が大汶口文化灰陶尊図象記号であり、仰韶文化泉護村遺址出土花弁図案土器にみえる月に梟(鴉)を図案化した紋様の月が太陽に変化したものと考えます。
 現在長江流域の文化を長江文明と呼ぶ動きがありますが、当時すでに黄河文明とも(あるいは古代オリエント文明とも)交流があり、互いに影響しあっていました。そうしたことから、私は両者を合わせて中国文明と呼ぶべきかと思います。
 さて、この碑の文字は、碑表・碑陰・両側に刻されています。石が風化し、はっきり見える文字は数少なくなっています。文字の横幅はほぼ同じですが、縦は自由な幅に書かれています。文字間はほぼ同じで、巧みな均衡構成で全体をまとめています。
 漢碑の多くが並列構成でまとめられているのに対し、磨崖碑を思わせるこの碑の構成は、スケールの大きさを感じます。風化が激しいため、定かではありませんが、どっしりとした中に流れがあり、古隷からの移行まもないころの書風を感じます。