曹全碑

 この碑は、詳しくは「郃陽令曹全碑」といいます。曹全は字を景完といい、非常によく義祖母や継母につかえ、建寧2年(169) 孝廉に挙げられ、郎中の官に除せられ、西域戊部司馬を拝しました。このころ疏勒国王和徳が叛きましたが、これを討って功績をあげました。つづいて光和7年(184) 張角の農民蜂起(黄巾の乱)に際して、郃陽令を拝して動乱を収めました。そこで群僚たちが彼を称え、生存中に頌徳碑を建てたものと想像されます。ところが何らかの理由で(中平2年9月に三公の一人楊賜が亡くなり、そのブレーンであった諫議大夫の劉陶は失脚し、翌月処刑されたことが史書に見えることから、曹全もその一味であったかと推測されています)、建碑の直前に土中に埋められてしまいました。万暦年間初め(16世紀末)に出土するまで、実に千数百年間、風雨にさらされることもなく、また拓本をとられることもなく、ずっと土中に眠っていました。
 そのため出土した当時は、「因」の字が欠けていただけで、文字は完好であったといわれ、そのような明拓本を見ることができます。清朝になってから碑が中断し、「乾」の字の偏を車偏のようにノミが入れられたりしましたが、1800年も経っているとは思えないほど文字がはっきりしています。
 曹全碑の字体は卓越して秀麗で、結構は釣り合いがとれ、漢代末期の名碑です。ただあまりに美しい隷書であることと、これを学んだ明代や江戸時代の隷書が流媚低俗なため、この碑までもが俗なものであるように言われることがあり、残念です。
 もっとも我国には現物の拓本は渡来せず、明和(1464〜1771) の頃、三井一族の富豪、伊勢の韓天壽(字は大年、中川氏 1727〜1792)が長崎あたりで入手した拓本を模刻して同好者に配ったのが一般に知られるに至った初めといわれています。
 今世紀の初めオーレル・スタインなどが発見した木簡などの中に、曹全碑風の八分があることから、この碑も再評価されるようになりました。漢碑の優麗な書風を代表するものとして学書に最も適したものといえます。
 碑陰について、屋代弘賢は入手した曹全碑の拓本に、「隸辧に曰く曹全碑陰、凡て四列、共に五十七人。金石文字記、詳にその姓名を載すと。金石刻考略に云う、碑陰は字体細小なりと。金石史に云う、書法簡質にして草々経意せず、また別に一体たり。益々知る、漢人の結体は意に命じて、錯綜変化して衫(ひとえ) せず、履(はきもの)せず、後人の及ぶべきにあらずと。余はこれを読みて望蜀(足ることを知らない)の思いあり。」と跋しています。
 碑陰には現在でも拓本が張られてなく、刻されたままの姿で建っています。グレーがかった薄茶色の石のせいか、温厚で人望の厚かった曹全の人柄が忍ばれる感がします。もっともこの碑も例に洩れず、回りをしっかりと鋼材で固め、碑陰の中央部には巾広の鉄板がはめられています。15年ほど前にこの碑を見たときは、確か、文字を石膏で埋めてあったと記憶しています。あるいは思い違いかも知れません。平成4 年10月に訪れたとき、なんと拓本を取っているのを見ました。現在、第二室・第三室は拓本禁止のはず、目を見張りました。どうやら悪戯され破かれてしまった拓本と取り替えるためのようで、何10年に一度の、まったくラッキーなタイミングだったようです。