篆書千字文序碑

 北宋の太祖乾徳 3年(965) に節度使呉廷祚が建碑した「篆書千字文」の碑陰に、「篆書千字文序」が刻されています。この序碑も呉廷祚によります。現在は、なぜか碑陰の「篆書千字文序」が表に向けて展示されています。
 この序によれば、「使えなくなった筆が聚まって塚を成し、池は墨で埋まった。史籀の死後は蔡邕が、陽冰の死後は夢英が生まれた。もしそうであれば賢諒(真実)がかわることなく、嘘はない」とあり、当時、夢英の篆書が、周代の史籀、後漢の蔡邕、唐の李陽冰と並び、高く評価されていたことがわかります。
 碑文の楷書は、上下左右に充分な空間をとって、隋唐を規範とした直線的な強い張りのある線で書かれています。背勢でありながら懐が大きく、意気込みや飾り気のないことが、おおらかさと明るさを醸し出しています。
 碑頭の中央部(一般的には碑額のある部分)には、三尊仏龕が造られています。そしてその上部の三角形の面には、雲文が刻まれています。さらに三尊仏龕の下には七尊仏龕を並べて刻しています。これらの手法は唐代を圧するものがあり、宋初を代表する碑の一つといえます。