道因法師碑

 道因法師、俗姓は候氏、濮陽(河南省)の人。7歳のとき母を失い、幼心にも人生の無常を感じてか出家し、やがて諸方を巡歴して仏道修業に励み徳を修め、道誉を馳せ、多くの業績をあげました。
 隋末には中原の兵乱を避けて成都の多宝寺に住みました。貞観19年(645)召されて長安に赴き、大慈恩寺において玄奨三蔵法師とともに梵経の翻訳校定に従事しました。玄奘三蔵法師は特に道因法師の学殖に傾倒して、瑣義片詞であっても道因法師の説に従ったといいます。
 道因法師は仏典のほかに史籍を研究し『老子』『荘子』を好み、一代の碩学として倫伍を越えていましたが、顕慶3年(658)に長安の慧日寺においてその生涯を終わりました。
 《道因法師碑》は入寂して5年後の龍朔3年(663)に歐陽通が書して、慧日寺の徒衆門人が長安の慧日寺に建てたものです。碑額にあたるところの中央に、高さ45p・幅34pの3尊が彫刻されています。中央に釈迦牟尼、右側に観自在菩薩、左側に大勢至菩薩で、その名を刻し、その下に右から横に「故大徳因法師碑」と隷意をまぜた措書で書かれています。このような形式は、《雁塔聖教序》の7尊仏像、碑陰の《贈夢英大師詩碑》の夢英大師像などと共に、大変珍しいものです。
 碑の両側の側には左右対称の波状2連の花紋図案である瑞獣宝相華文の精緻華麗な浮き彫り(陽刻)があります。また特別《道因法師碑》だけに見られるものとして碑座の亀峰の両側に人物画の線刻の傑作があります。左右2組で、巻毛で深目の10数人の少数民族の装束をした人物が、犬・馬とともに線刻されています。
 筆者の歐陽通は字を通師といい、楷書の典型の確立に大きく関与した初唐の3大家の1人、歐陽詞の晩年の子です。歐陽通には長卿・粛・倫の3兄がいます。
 歐陽通は儀鳳4年(679)中書舎人に累進し、垂拱中(685〜688)には殿中監に至り、渤海子を賜りました。天授元年(690)夏官尚書、翌2年に司礼卿・判納言事の要職にあり、宰相の列に加わりましたが、たまたま鳳閣舎人の張嘉福らが、武則天の姪である武承嗣を皇太子に立てようと請うたとき、岑長倩とともに断固としてこれに反対しました。
 そのため彼等の憎しみを買い、やがて岑長倩が大逆に坐して死んだ後、歐陽通もまた酷吏の来俊臣の陥るところとなって誅せられました。
 彼は父に似て、厳正な筆使いに一種の風格を持っています。しかし、父の歐陽詢は彼の童年期に世を去り、歐陽通は父から直接に書を習えませんでした。父の歿後、母親の徐氏が父の書を集めて彼に教えたと言われています。一分の隙も見せない謹厳で周到な書きぶりで、父の大歐陽に対して小歐陽と称されました。
 歐陽通の筆法の特徴として、特に横面の書き方についてみてみると、起筆にしっかりと力を入れ、これを引き出し、終筆部分では止めるあるいは跳ね出して、まったく省略がありません。その1本1本の強く鋭い線は、見るものをして自ら襟を正す思いです。しかも1字の重心はかなり低く、安定しています。
 歐陽通の生年は未詳ですが、卒年は武則天の天授2年(691)で、享年は55歳から60歳ぐらいであったと推定されていますから、この碑は30歳ごろに書かれたと思われます。
彼の他の書作としては、龍朔3年(663)に《道因法師碑》を書き、《益州碑》や、文明元年(中宗の嗣聖元年、684)に母渤海県太君徐氏のために《徐夫人墓誌銘》を書きましたが、既に亡伏しており今日それを見ることはできません。
 中華民国になって1922年、高宗の末年に近い調露元年(679)、すなわち《道因法師碑》に遅れること17年にして刻された《泉男生墓誌》が、洛陽付近から出土して世に紹介されました。現在、開封博物館に保管されています。
 《泉男生墓誌》と《道因法師碑》を比べると、墓誌では風骨遵勁のうちに老熟が感じられます。したがって歐陽通が皇太子擁立運動に反対して殺害されるというような不幸にあわず天命を全うしていたら、あるいは父の歐陽詞に並ぶ、さらに品格の高い境地に至っていたでしょう。悔やまれてなりません。