争座位文稿(顔魯公与郭僕射書)

 《争座位文稿》は、《祭姪文稿》、《祭伯文稿》(ともに758年 真卿50歳) とともに顔真卿の「三稿」と呼ばれて有名なものです。
 唐の代宗の広徳2年(764年 真卿56歳)11月に、右僕射の郭英乂に与えようとした手紙の原稿ですから、本来は「郭英乂に与える書」とでも呼ぶべきものですが、その内容が百官集会の坐位(席次)について、郭英乂の取り扱いを不当なものとして抗議したものなので、一般に《争座位文稿》とか《争座位帖》と呼ばれています。
 《争座位文稿》の真跡本は『宣和書譜』巻三に著録されていますが、それ以降は行方が知れません。現在伝えられる刻本は宋代以後のもので、7種類あります。この中で有名なのが、碑林に収蔵されているこの「関中本」(西安本) です。
 「関中本」の刻石は、刻された年代も刻者も不明ですが、宋代にすでに刻されたと推定され、刻者も安氏ではないかと言われていますが、確かな拠り所はありません。しかし、その刻法は精密で、文字に精彩があり、最も評価の高いものです。1字1字の造形を均衡の上に成り立たせ、丸みを持ちつつ、しかも強く、率意のうちに書かれています。媚びたところはなく、筆の運びにも力みがなく、すみずみまでよく神経がゆきとどき、大小・長短・肥痩などの変化の妙趣に富んでいます。しかし、米芾が見たという真跡本は「書き切れないときは行の下の余白に横に書き入れてある」とあり、元の姿ではないようです。
 なお、この刻石は、どういうわけか縦書きのものを横にして建てられています。