興福寺断碑

 この碑は、興福寺の僧大雅が王羲之の行書を集字したもので、碑文に鎮軍大将軍の呉文という人が、開元9年10月23日に埋葬されたとあることから、《集字聖教序》に遅れること約50年、開元9年に建てられたと推測されます。
 鎮軍大将軍の呉文の墓誌ということから、《呉文残碑》とも呼ばれます。しかし、「呉」の字は、「矣」であるとの考証が発表され、この呼び方は正しくないとされています。
 明の万暦年間に発見されましたが、そのとき既に碑の上半は失われていました。現存しているのは下半だけです。
 この碑の文字を《集字聖教序》の文字と比較してみると、《集字聖教序》にある文字は、ほとんどそのまま使用されています。しかし、字体はかえってよく整い、書風も穏健で、字配りも自然になっています。そのため断碑の方が習いやすいことは事実ですが、王書本来の神彩に乏しいとする人もいます。
 断碑ですから全体を見通すことはできませんが、字形の姿勢が良く、直線を基調とした筆致の明快な行書で、無理のない整った形をしています。また、縦画がやや太めで力強く、そのため文字が整然と並び、すっきりとした印象を与えます。王羲之の行書の字形はおおむね文字の上部あるいは左偏の筆の動きの大きいものが多く、整斉さの中にも動きを感じるのは、このように1字の中に不均衡な部分を作り、それを巧みに処理しているからです。視覚的な力の均衡の保ち方が絶妙なのに驚かされます。