集字聖教序(大唐三蔵聖教序碑)

 太宗の聖教序と高宗の記とを刻した褚遂良の《雁塔聖教序》に、太宗の『答勅』、高宗の『牋答』とを添え、さらに『般若波羅密多心経』をも刻したのが、この碑です。
 文字は、弘福寺(神龍元年(705) に興福寺と改名)の僧懐仁が、当時最も流行した東晋の王羲之の書を集字して刻しました。懐仁は、宮中に蔵せられている王羲之の筆跡から一字一字を集め、無い字は偏旁を組み合わせてつくりあげました。このことから、この碑は集字碑の先駆とされています。また、貞観時代の宮中の王書のコレクションの豊富さを考えさせられ、その意味からも貴重な資料といえます。
 ただ問題なのは、序や記を賜った貞観22年(648)から、実に25年後の咸亨3年(672)12月8日に建てられている点です。一説では「現存の碑は原石ではない」とも言われています。この碑を見ると、碑陰には何も刻されていません。聖教序は他に《雁塔聖教序》(永徽4年 653)や《同州聖教序》・《聖教序并記》(顕慶2年 657)などがあることからしても、疑問が残ります。
 字体は行書を主としていますが、集字のためか、時には楷書も交じり、草書も多少含まれています。線の太さも、太いもの、細いものがあり、文字の大小も不揃いです。筆勢も、速く鋭いもの、穏やかで温雅なものがあって、必ずしも統一されたものがあるとは言えません。しかし、行間の取り方、全体の章法によって、おおむね一気呵成になされたように見えます。
 鐫刻したのは朱靜藏で、その刻し方を見ると、鋭利な刃物で一点一画を一挙に削り取るように刻されています。1300年の時を越え、当時そのままに保存されています。
 そうした絶技も手伝ってか、王書の風神をよく伝えるものとして、歴代の讃歎を受け、法書第一の石刻とされています。