楚金禅師碑

 この碑は、唐の第七代粛宗皇帝・乾元2年(759) の7月7日に入寂した法華楚金禅師の碑です。多宝塔は、楚金が天宝11年に建立した舎利塔で、その因縁によって多宝塔感応碑の裏面に刻されたと思われます。
 碑文によれば、亡くなって38年後の貞元13年(797)4月、楚金は大圓禅師の諡を賜りました。その後8年を経て、この碑が刻されました。楚金の沒後46年を経ています。
 碑文の撰者飛錫は、楚金とほぼ同年の法友であったようですから、おそらく碑文は楚金の沒後まもなく作られたものと思われます。しかし、何らかの事情で立碑に至らず、46年を経て、呉通微が書し、ようやく刻されました。
 この碑は、碑陰ということもあって、拓本が張られていません。左の写真では解りづらいですが、保存状態も良く、当時が忍ばれます。
 呉通微は徳宗朝に仕え、翰林學士、職方郎中・知制誥となり、弟の通玄と共に皇帝の信任の厚かった人物です。彼の書は唐末から宋初にかけて、「院体」と称されて、中原の士大夫に非常に流行しました。美しい楷書で、良く整っています。点画は柔らかで、特に転折は丸味をもち、暖かななかに、どこか古雅で素朴な味わいがあります。結体も巧みな造形で、懐が大きくゆったりとしています。しかし、それが逆に技巧にはしる結果となり、どことなく弱々しくなっています。