多宝塔感応碑

 この碑は、西京龍興寺の僧楚金(ソキン 姓は程、広平の人・698〜759)が、霊夢に感じて、多宝塔(舎利塔)を建立した次第を勅命により記したものです。
 もとは興平県(陜西省)の長安右街安定坊の千福寺に建てられ、明代には西安の府学にありました。
 多宝塔感応碑は、顔真卿が44歳の時に書いた、つつしみ深く正直な楷書です。丁寧な筆運びで、結体も引き締まり、骨組みのしっかりした若き日の顔真卿を忍ばせます。
 しかし、反面それが当たり前すぎてつまらないとか、ゆとりがないとも言われています。ともあれ、後年の顔書の根底をなすもので、顔書研究の大きな資料と言えます。
 題額は、顔真卿より6歳年上の徐浩(703〜782)の隷書で、多肉で骨格のしっかりした堂々とした書きぶりです。徐浩は浙江省越州の人です。文章家として名高く、このころ隷書を得意としていた玄宗皇帝に劣らぬものがあると評されています。
 碑文は岑勛(シンクン)が撰文しました。彼は正史に伝がなく、碑文にはただ「南陽の岑勛」とだけあります。しかし、『白氏文集』などに名を残していることから、かなり詩文に長じた人のようです。
 この碑は石質が堅く、字は完好です。清の康煕年間(1662〜1722)に碑額が断折しましたが、本文は最後の中間4行に丸い碗状に18字欠けた部分があるだけです。
 拓本の新旧については王壮弘(オウソウコウ)『増補校碑随筆』などに詳細な記載があります。