皇甫誕碑

 この碑は、隋に仕えた皇甫誕のことを誌したものです。皇甫誕は、字を玄憲(ゲンケン)と言い、漢王楊諒(ヨウリョウ)并州総管のとき、総管府の司馬を拝して諸政を司り、さらに儀同三司となりました。
 諒は、隋の文帝が崩御された頃、天下を狙っていました。これに対して、誕は安危順逆を説いて対しましたが、隋の第二代煬帝(ヨウダイ)が帝位につくにおよび、諒はついに兵を発して乱をなしました。
 誕は大いに諒を戒めましたが果たされず、仁寿4年9月、51歳で逆に殺されてしまいました。誕の非命の死に対し天子は痛惜せられ、弘義郡公に封じ、明公(メイコウ)と諡(オクリナ)されました。
 子の無逸は父の事跡が消滅してしまうことを惜しみ、この碑を建てました。
 この碑の書は、一字一字がやや右上がりで、縦長ですが、横画をかなり長めに書くことで、全体としてのバランスがよく保たれています。起筆は露鋒が中心で、蔵鋒は例外的にしか見られません。また、中心を左にずらすことで懐を締め、強い右上がりをコントロールしています。
 文字の内部に力を凝縮させて、左右に延ばした画によって外部に空間を取り、その微妙で巧みな均衡感覚によって、ゆつたりと華やいだスタイルに見せています。

碑 の 変 遷

 この碑は、方若『校碑随筆』によると、明代に第1行18字目より第28行47字目にかけて、斜めに一筋のひびが入ってしまいました。そこで、それ以前の宋拓本を「未断本」と呼んでいます。その中でも第2行目の「参綜機務」の字がまだ欠けてないものが、とりわけ旧拓とされています。
 明初になると、第一行から末行にかけて綫状の断紋があることから「綫断本」と呼んでいます。
 明末には割れてしまいましたが、第2行目の「勢重三監」の「監」と、その後の「然并」二字がまだ欠けていなかったので「三監本」と呼んでいます。
 清初には、「無逸」の二字がまだ欠けていなかったので「無逸本」と呼んでいます。近拓ではこの「無逸」の二字も欠けてしまっています。
 陝西省博物館碑林研究室の趙敏生・李域錚両先生の『歐陽詢書皇甫誕碑』(陝西省人民出版社)によると、明代の断裂は、嘉靖34年(1555)に起こった大地震によるものであるといいます。この時、碑亭が損壊し、碑身が中断したといいます。
 詳しくは、王壮弘『増補校碑随筆』に影印諸本を掲げ、それらの特徴を細かく連記してあるので参照してください。

皇甫誕碑の立碑における諸説

 碑に記年(碑の建てられた年)が記されていないことから、立碑の年について次のような説があります。

☆隋代立碑説

安世鳳(アンセイホウ)『墨林快事』巻5の説
 この碑は歐陽詢の諸碑中にあって、最も妍潤であり、隋代に立てられた。詢の若い頃の作である。その晩年の老筆、勅を奉じて自負するもの(《九成宮醴泉銘》)と同じではない。
書風に基づく考察ですが、根拠に乏しく思われます。

☆ 唐の高祖武徳年間(618〜626) 立碑説
王澍『虚舟題跋』巻6の説
 この碑は唐の高祖の世に書かれた。史を按ずるに、誕の子の(碑を建てた)無逸(ムイツ)が民部尚書を拝し、益州大都督府長史に累進したのは、みな高祖の世のことである。この碑にはただ民部尚書と称して、益州長史とは称していないから、きっと高祖のときの書にちがいない。また史には次のように言う。歐陽詢は貞観の初めに太子率更令・弘文館学士を拝し、渤海男に封ぜられた、とあり、この碑はただ銀青光禄大夫と称して、率更令・渤海男とは書いていない。それが高祖のときの書であることは疑いない。ただ、『旧唐書』によると、于志寧は貞観3年に散騎常侍・行太子左庶子を授けられ、黎陽県公に累封された、とあり、これは碑文と正しく合っている。これによると、貞観初年の書のようでもある。しかし唐人はもっとも諱を重んずる。褚遂良の聖教序は高宗の世に書かれ、太宗李世民の世の字にはなお闕筆(文章で、天子や身分の高い人の名と同じ字を使うのをおそれおおいとして、その字の一部分を省略して書くこと)がみられる。民の字は人の字に代えている。ましてや太宗の世にあ って諱まない道理があろうか。世の字、民の字はみな闕筆がない。きっと高祖のときの書にちがいない。その于志寧の官位はあるいは高祖の授けたものかもしれず、史書は誤って書いているのであろう。
武徳9年(626)、太宗は「世」「民」の両字が連続しない場合、諱避する必要はないとしました。

顧炎武(コエンブ)『金石文字記』巻2の説。
 『旧唐書』于志寧伝を按ずるに、貞観3年、中書侍郎に累遷した、とある。太宗が貴臣と殿内で宴会したとき、志寧の姿がみえないのを怪しんだ。ある人が奏して、勅命に三品以上を召すとあり、志寧は三品でないので参上しなかったのです、と述べたところ、太宗は特に志寧を宴会に加わらせ、散騎常侍・行太子左庶子を加授し、黎陽県公に累封させた、とある。すなわちこの碑は貞観の初年に立てられたのである。その立碑年を記さないのは、皇甫誕が階の臣であるから、唐の年号を書きつけていないのである。

☆唐貞観3年以後9年以前立碑説

王昶(オウチョウ)『金石率編』巻44・皇甫誕碑の条の按語。
志寧の題銜に銀青光禄大夫・行太子左庶子・上柱国・黎陽県開国公と称している。『新唐書』于志寧伝に、貞観3年、中書侍郎となる。太宗が近臣と宴を催したとき、特に詔を下して志寧も宴に参加し、散騎常侍・太子左庶子・黎陽県公を加えられた。このとき、七廟を立てることを議したとあり、このことは礼楽志に載っており、貞観9年に高祖が崩御してのちのことである。志寧が太子左庶子を加えられたのは貞観3年から9年の間である。歐陽詢の題銜にはただ銀青光禄大夫と称し、他の碑に太子率更令と題しているものと異なっている。詢の本伝に、貞観の初年、太子率更令を歴任したとある。百官志に、率更寺令は一人、従四品上、文散階従四品上を太中大夫という、とある。この碑にいう銀青光禄大夫は従三品で、位階は于志寧と同じである。志寧は時に左庶子の官にあり、正四品上であるので、位階は正議大夫にあたり、開国県公に封じられたから、爵位は従二品である。銀青光禄大夫を用いているのは、二品・三品の間にあるのかもしれない。詢の官銜に率更令・渤海男と署せずに、ただ位階のみを書いているのは、官爵と符合せず、詳らかには知りがたい。

☆唐貞観17年立碑説
羅振玉『雪堂金石文字践尾』巻4の説。
私は撰文者于志寧の題銜によって、趙明誠『金石録』に貞観年間に立碑されたとある語の信頼すべきことがわかった。考えるに、志寧は官街を銀青光禄大夫・行太子左庶子・黎陽県公と書いている。『新旧唐書』の両伝には、志寧の拝職年月を叙するのを均しく略している。ただ令狐徳棻の撰した于志寧碑はきわめて詳細で、それには、志寧は武徳年間に黎陽県子に封ぜられ、貞観10年、爵を進められて公となり、17年また左庶子を拝し、銀青光禄大夫を加えられ、18年、金紫光禄大夫衛尉卿に拝された、という。この碑は実に貞観17年に立てられた。
張懐瓘の『書断』巻中に、貞観15年、歐陽詢は85歳で没したとあります。

 諸家は撰者の于志寧や歐陽詢の官銜によって年代を追っていますが、史伝や碑文に異動があることから種々の説がでてきます。
 これに対して、中田先生や松井先生は書風の上から、歐陽詢が晩年に書した《温彦博碑》(637) の前後との説を立てています。
 確かにこの書の書風は、歐陽詢の晩年に近似しています。《九成宮醴泉銘》(632)と比較すると、結体が一層引き締まって、点画がやや細目になっています。きびしい筆使いで、神経が隅々まで行き届いています。それでいて息苦しくなく、品格の高さを感じます。
 また、この碑の歐陽詢の官名には銀青光禄大夫とあります。この官名は《温彦博碑》にも見られます。
 私としては、書風・官名から推測された中田先生や松井先生の説、すなわち《温彦博碑》(637) の前後、歐陽詢の最晩年期と想定するのが良いように思います。あるいは、歐陽詢の官名は煬帝の頃のもの?で、碑文の内容からして隋代のようにも思いますが、息子の通の《道因法師碑》に方筆の北魏の遺風が見られることからも、やはり最晩年期と想定するのが良いと思います。