御史台精舎碑・御史台名

 精舎とは、一般に僧侶が仏道を修行し礼拝する祠堂をさしますが、ここでいう御史台精舎とは御史台に仏舎があり、御史台の役人で仏を篤信する者達によって建てられた仏舎と言われています。
 唐の中央管制は、三省と六部から成っています。三省は中書(詔勅などの起草)・門下(同審議)・尚書(同執行)の各省で、六部は尚書省下の吏・戸・礼・兵・刑・工部の6機関です。中書は三国の魏、尚書は後漢に起源があり、三省・六部の制は北斉に倣った隋の制度をうけて完成しました。そして三省・六部に加え、九寺・御史台がありました。
 御史台とは、官吏の弾劾を任務とする監察官の役所で、名称は後漢から唐に及びます。唐の中央管制は日本では二官八省として独自化されましたが、御史台は日本では弾正台にあたります。
 碑文によれば、長安の皇城・承天門街の西第六横街の北に御史台がありました。元和4年(804)に仏舎が焼けましたが、ただちに御史の李膺が俸料しました。
 碑表には、銘と序が、碑陰および碑側には、《御史台名》が刻されています。
 筆者の梁昇卿は八分体(隷書)に巧みで、当時の絶巧であったといわれます。この書は、筆圧の大小に伴う穂先の開閉が、線に自在な変化をもたらして、肥痩の巧妙な構成美を作り出しています。字形はあくまでも端正で、伸び伸びとした直線的な張りのある線を積み上げて造形し、安定感と気迫に満ちた書相がうかがえます。
 左払いは、筆が進むにつれて太くなり、最後を軽く右上にはねています。右払いも、筆が進むにつれて肉太になり、捺の部分で特に力強く筆を右上にぬいています。こうした筆使いで、全体としては飾り気のない、淡々とした力強い素朴な美を表現しています。
 碑陰および両側には、御史台の役人の姓名が刻されています。それを《御史台名》と呼んでいます。
 その中には、碑陰下層題名と碑陰左梭題名の二か所に王維、碑陰額題名に顔真卿、碑左側題名に徐浩、殿中侍御史并内供奉の梁昇卿をはじめ、名士の名が並んでいます。
 とはいえ、1100名を超える名簿の中からそれらの人の名前を見つけるのは大変です。しかし、第二室の隅にあるこの碑を見る人はほとんどいません。ゆっくり探して見るのも一興です。
 余談ですが、壁との間は狭く、為に洋服が真っ白になりますので、気をつけてください。