開成石経

 ここは中国最大の石に刻くした書籍の庫(クラ)です。中に入ると、整然と並ぶ石の壁に、まず圧倒され、言葉を失ないます。この石経を保存するために碑林が建てられただけあって、さすがとしか言い様がありません。今、夢にまで見た石経の前に立っている、その感動と、林立する石壁の圧迫感に、何度来ても呆然と立ちすくみます。
 第一室の建物は、の字形になっています。その中に114石の石経(セキケイ)が、左右対称に並べられています。石経とは、重要な経典の正文を後世に伝えるため、石に刻したものをいいます。普通は儒家の経典をさしますが、仏教・道家の経典を呼ぶ場合もあります。中国では、儒教が国教で、その経典は伝統的な君主国家存立の根底を成していました。そこで、これらの正文の維持には歴代王朝が意を用い、石経建立はすべて帝王の命で行われました。
 この儒家の経典を最初に石に刻したのは、前漢末の平帝・元始元年(1)に、王莽(オウモウ)が甄豊(ケンホウ)に命じて「易・書・詩・左伝」を刻させたもの、といわれています。
 後漢に至り、諸学者の間で経学についての争いが起こるようになりました。霊帝(在位168〜189)の時代には、諸家がそれぞれ自家所伝の経文の優位を主張し、当時の標準本であった官庫の経文を改変して、自家本と合致させようと努める状態となりました。
 そこで祭邕らによる経文統一運動が起こったのを機に、霊帝は熹平4年(175)に、永久に改変できないところの石経建立の詔を出しました。詔にもとづき、天下の学者をして五経文字の異同訛謬脱落を校正し、全石46枚、高さ1丈、幅4尺、1石に35行前後、1行に70字前後の八分体で刻し、洛陽の大学門前に建てて、公衆の閲覧に供しました。それは「周易・尚書・魯詩・儀礼・春秋・論語」を蔡邕自身の隷書の朱書をもとに刻されたものといわれます。これを、その時の年号をとって《熹平石経》と呼んでいます。熹平石経は、すでに漢末の董卓(トウタク)の乱で欠壊し、その後のあいつぐ兵乱によって諸所に移された結果、隋末に及んで、まったく姿を消してしまいました。現在、西安・洛陽から残石が発見され、碑林第三室にも《周易残石》が陳列されています。
 熹平石経が建てられてから70余年の後、魏の廃帝の正始年間(240〜248)に、古文・小篆・八分の石経が、熹平石経に並んで洛陽の国子監の前に建てられました。この石経は《三体石経》と呼ばれ、経典は「古文尚書」と「春秋左氏伝」の二種だけで、表裏各一種を刻し、およそ27碑に収められていました。この三体石経の1碑は、北京の中国歴史博物館にも陳列されています。
 その後、石台孝経の項でも説明しましたが、仏教・道家の思想に追われ、儒教は軽視されたこともありました。しかしその後、玄宗が「御注孝経」を作ったことに始まり、代宗の大暦11年(776)に国子司業(副総長)の張參が、説文や字林によって経典の文字の誤りを正し《五経文字》を発表しました。また、唐玄度が《九経字様》を発表しました。
 そして国子祭酒(国立大学総長)の鄭覃(テイタン)は、当時、これらの経典には文字の異同が多かったので、碩学を集めて信頼できるテキストを作り、これを石に刻して後人に典拠を与えようと努めました。その上奏が認められたのが、文宗の太和4年(830)のことで、同9年(835)に刻字をはじめ、開成2年(837)10月、国子監に建てられました。開成2年に成ったので《開成石怪》と呼んでいます。
 その後の経緯は、碑林建置の歴史に書いた通りです。開成石経は、『旧唐書』文崇紀には、《石壁九経》となっています。あるいはこの方が当時の正しい呼び名かも知れません。ただ、九経とはありますが、その内容は、「周易・尚書・毛詩・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・公羊伝・穀梁伝」の九経の他に、「孝経・論語・爾雅」が含まれ、12経です。唐代には「孟子」は含まれていませんでした。
 明の嘉靖34年と嘉靖42年の2回にわたり、陜西地方に大地震が発生し、碑林の多くの碑石が被災しました。中でも《開成石経》は40石が断裂しました。そこで西安府学生の王堯典等が石経の欠字を調べ、小石に刻して碑の傍らに建てました。これが《開成石経補字》97石です。現在も入口の左に8列、右奥に3列、すべてコンクリートで固めた煉瓦の壁に、整然と埋め込まれています。かくして彼等の努力は大切に保管され、石経の欠字はすべてフォローされています。
 こうした先人の偉大な功績に想いを馳せると、時を越えた異空間に我が身を置いている感じがします。
 現在、碑林第一室には、清の康煕3年(1664)に、当時の陜西巡撫の官であった賈漢が補石した《孟子》が加わり、十三経が114石の表裏228面に刻され、総字数は65万余字にのぼるといいます。
 1石の大きさは、多少相違はありますが、だいたい縦が217p、横97p、厚さ28pで、これを7段ないし8段に分け、1行は9字〜11字、ときに空手のところもあります。毎石の行数は必ずしも同一ではありませんが、だいたい34行くらいで、1石に2500字ばかりが刻されています。1字は、縦が約2.3p、横が約2pです。刻石中の十三経の経典名は、力強い隷書で書かれています。本文の楷書は、謹厳さをもって丁寧に書かれていますが、あまり上手とはいえません。ただ、この石経は字画の異同・訛謬・脱落・学派による異説などによっておこる弊害を除去するための欽定の定本を目的としたので、自ずから活字体を思わせるような、個性味のない字形なのも当然かもしれません。

石の番号と文字数一覧

易   経     1石〜 11石( 24,437字)
尚   書    11石〜 19石( 27,134字)
詩   経    19石〜 34石( 40,848字)
周   礼    34石〜 51石( 49,516字)
儀   礼    52石〜 71石( 57,111字)
礼   記    72石〜105石( 98,994字)
五経文字   105石〜113石
九経字様   113石〜114石
春秋左氏伝 115石〜182石(198,945字)
春秋公羊伝 182石〜198石( 44,748字)
春秋穀梁伝 198石〜214石( 42,089字)
孝   経   214石        (  2,??3字)
論   語   215石〜221石( 16,509字)
爾   雅   222石〜226石( 10,791字)
尾   語   227石〜228石
                (総 計 652,052字)