碑林建置の歴史

 西安の文廟(孔子廟)は、南門から城壁に沿って、やや東によったところ、三学街の南端にありました。文廟は昔、文教の中心だったので、古くから儒学の古典である石経をはじめ、いろいろな碑石が置かれました。
 この文廟の西隅に7室・8廊にわたって、後漢以来の膨大な碑石の大コレクションがあります。これこそが、西安碑林です。
太和7年(833)〜開成2年(837)の間
 後漢の≪熹平石経≫にならって、周易・尚書・毛詩・周礼・礼記・左氏春秋・穀梁春秋・孝経・論語・爾雅の12経を、石に刻しました。これが有名な≪開成石経≫です。
 この石経と≪石台孝経≫を保存するため、唐の長安城・務本坊(朱雀街東第二街の最北端)の国子監内に碑房を建築しました。

▼天佑元年(904)
 宋の太祖の建隆3年(962)の≪重修文宣王廟記碑≫によれば、朱全忠の反乱により、長安城が破壊され、洛陽に遷都しました。
 国軍節度使の韓建が防備のため、皇城を基礎にして長安城を改築縮小し、新長安城を改築しました。それが現在の城壁の内側です。
 結果、務本坊は城外になってしまい、石経などは郊野に放置されたままとなりました。

▼開平3年(909)
 宋の真宗の大中祥符2年(1009)の≪新修文宣王廟大門記≫によれば、五代の後の開平3年(909)、長安を守備していた劉が石経を城内に運び入れ、宋の文廟(唐の皇城)の尚書省の西隅に移しました。
 それは現在の城内(城壁の内側)鼓楼の北、社会路に面する旧清朝の布政使司署だった所です。
 しかし、その場所は湿度が高く、また充分な保護が加えられず、いくぶんかの損傷をみながら180年ばかりが経過しました。

▼元祐2年(1087)

 元祐5年(1090)の≪京兆府新移石経記碑≫によれば、時の漕運使・呂大忠の指導のもと、府学の北面(今日の碑林の所在地)に新城を修復して、六経石本(開成石経)を移置保護した、とあります。

元祐5年(1090)
 同じく≪京兆府新移石経記碑≫によれば、全部の石経とその他の重要な碑石を府学の北面に移置保護した、とあります。
 その地は乾燥していて基盤が堅固で、廳(ホール)・館・亭・廊等が修建されました。
 そして石経全114石は東西に両翼に分けて陳列し、石台孝経と建学碑が中央に立ち、「顔・・歐陽・徐・柳の書および夢英の偏旁字源碑の類が庭の左右に分立された」とあります。これにより碑林の礎ができたといえます。
 ただ、碑林は石経の保存を主眼として創設された事からすれば、元祐2年を完成した時期とすべきかとも思いますが、中国では元祐5年を碑林創立の公式年としています。

金・元期
 屋根を修復したという記録はありますが、碑石についての記載は見付かりません。

咸化9年(1473)
 馬文升が碑林を重修しました。

▼嘉靖34年(1555)・嘉靖42年(1563)の2回の震災

 関中(陜西)に大地震が発生、碑林の多くの碑石が被災しました。中でも、≪開成石経≫は40石が断裂し、≪多宝塔碑≫≪玄秘塔碑≫≪皇甫誕碑≫≪不空和尚碑≫≪孔子廟堂碑≫≪集王羲之書三蔵聖教序碑≫≪三墳記碑≫≪先塋記碑≫等が倒れ、破損しました。
 明の趙子著の『石墨鐫華』によれば、西安府学生の王堯典等が、石経の欠字を調べ、小石に刻して碑の傍らに建てた、とあります。これが≪開成石経補字≫97石です。

▼万暦17年(1589)
 この年に建てられた≪重修孔廟石経記≫によると、「歳月既に久し。拓本をとる者は多い。結果、磨滅して読めなくなってしまった部分がある。……およそ点画は生彩を失い、苔むし、石が裂けたり傾いたりして、≪開成石経補字≫に頼らねばならなくなった。」とあります。こうしたことから、本格的な整理が行われました。

▼万暦21年(1593)
 沈聴之・李得中等が修理を施しました。

康煕3年(1664)
 清代に補刻された『孟子』9石が加わりました。

康煕21年(1682)
 『大学』『中庸』の2石が加わりました。

康煕59年(1720)
 徐朱鼎によって碑林の修整が行われ、≪重修碑亭碑記≫に詳細に記載されています。

乾隆46年(1781)
 畢によって、大規模な整理が行われました。畢は西安碑林建設に貢献した重要人物の一人にあげられます。
 ≪関中金石記≫には、「棟が新しく建てられ、新発見の10の碑が加わった。……そして明代・近代の佳作は、別棟を建てて保管した。」と記録されています。

嘉慶10年(1805)
 盛惇崇によって整修されました。

道光23年(1843)
 整修されました。

1936年〜1937年
 明清時代よりも大規模な整修が、西安碑林工程監修委員会によってなされました。梁思成の設計により、北平建築学社が担当しました。
 主要な建物はすべて修復され、現在の第六室が新たに建てられました。各陳列室の修復の間、碑石は墓誌廊に移されました。
 同時に大門(入口の門)・保管室・休息室・事務室と碑亭が修建されました。碑亭の、地下に潜っていた碑座が、地面に露出するようになりました。
 そして、碑亭の後ろにあった碑洞(唐碑を主とする一棟)が取り払われ、第二室・第三室に分けて保管されました。
 また、『孟子』『大学』『中庸』等の碑は、開成石経室(第一室)の東側に移管されました。≪開成石経≫も詳細に調査され、陳列方法も大きく変わりました。
 碑石は、全部の碑額をセメントで固定しました。そして、碑の前後・両端を鋼板で挟み、碑身の断裂したところを補強しました。2碑ごと、3碑あるいは6碑の中間に、セメントの柱を建てました。
 しかも、その柱は装飾的にも工夫された設計です。そして碑石を、あたかも屏風が立ち並んでいるかのように、並列に並べました。

1939年
 かつての国民党政府監祭院院長で、現代書法の大家の于右任先生は、1924年、洛陽の骨董商人から、漢・晋・北魏・北斉・北周・隋・唐などの碑・墓誌を290余石を購入しました。いわゆる「鴛鴦七誌斎」蔵石です。
 これを、1939年、碑林に寄贈しました。「鴛鴦七誌斎」とは、≪元及其妻穆玉容墓誌≫≪穆亮及其妻尉太妃墓誌≫≪元誘及其妻馮氏和薛伯發墓誌≫≪元遥及其妻梁氏墓誌≫≪元譚及其妻司馬氏墓誌≫≪赫連子悦及其妻閭衒墓誌≫≪李挺及其妻劉幼妃墓誌≫の7墓誌です。

1944年6月
 西安碑林の中に、陜西省歴史博物館を設立しました。

1948年〜
 将原新城内の小碑林(前陜西省歴史博物館)より、ひっきりなしに≪顔勤礼碑≫≪慧堅禅師碑≫≪武都太守残石≫≪美原神泉詩序碑≫≪述聖頌碑≫等の名碑が、碑林に移入されました。これにより一層豊富な内容のコレクションとなりました。
 しかし、これらの碑誌の管理はあまり良いとはいえず、碑室内は暗くて湿度が高く、蜘蛛の巣・鼠の穴が目立ち、鳥の糞が所々を汚していました。
 そのうえ、雑草が生い茂り、一見、荒涼とした景観を呈していました。

1949年
 西安解放(中華人民共和国建国)後、人民政府の援助のもと、古老の碑林は、新しくよみがえり、適切な保護のもと、迅速に発展しました。

1953年
 西北文化部の仲立ちで、碑林と文廟が合併し、1954年、陜西省博物館となり、碑林は博物館の重要な構成要素の一つになりました。

1961年3月
 国務院は、〈全国重点文物単位〉を公布し、西安碑林はその一つに指定されました。この後、文物部門は基本建設単位に、緊窟に配合されました。
 また、発掘された各時代の重要な碑石や墓誌は、300余石におよびました。
 その中でも有名なものとしては、魏≪正始石経残石≫、晋≪司馬芳残碑》、隋≪尼那提墓誌≫≪羅達墓誌≫、唐≪郭榮碑≫≪李愍碑≫≪道徳寺碑≫≪李夷簡碑≫≪楊孝恭碑≫≪李寿墓誌≫、柳公権≪廻元観鐘楼銘≫等があります。
 それに加え、全国各地からも、続々と書法名碑がここ碑林に移入しました。代表的なものとしては、漢≪熹平石経残石≫≪蒼頡廟碑≫≪仙人唐公房碑≫≪曹全碑≫、前漢≪広武将軍碑≫、北魏≪暉福寺碑≫、唐≪同州三蔵聖教序碑≫≪蔵懐恪碑≫、北宋≪折克行碑≫≪折継閔神道碑≫≪大観聖作之碑≫、于右任≪楊松軒墓誌≫≪耿直記念碑≫、馮玉祥≪朱子橋記念碑≫等があります。これにより、碑林の内容はさらに充実しました。
 以後、30数年、文物保護の方針を貫き、人民政府は数多くの整修を行いました。たゆまず建物の修復を行い、書棚を増やし、環境緑化を計りました。
 そして、碑林研究室を作り、碑石を調査して文物のデータを保存しました。学術論文の著述や、碑帖の編集出版をし、宣伝にも勤めました。

1978年〜
 国家が、古代珍貴文化遺産の保護に乗り出し、碑林は防震補強措置を施すことになりました。碑林のすべての建物の柱に耐震補強をし、陳列されている碑石は、各室ごとに角鋼材で、碑頭・碑身・碑座を固定して、一個のかたまりとして、地下にリべット締めしました。碑石の間は、角鋼材でつなぎ、耐震能力を高めました。
 同時に、主要な碑石の保護を強化しました。現在碑林は、明るくきれいで、整斉とした美観を呈しています。
 収蔵品は漢・晋・北魏・北周・隋・唐・宋・元・明・清・近代の碑石・墓誌・経幢・造像など2300余点。そのうち1000点ほどが陳列されています。陳列面積は1964.3u、6つの陳列室・8つの墓誌廊・2つの碑墻・8つの碑亭があります。

1981年
 第七室を建設し、陳列面積の不足を補充しました。

1998年〜1999年
 石刻芸術室の内装を全面的に改装し、内部の写真撮影が禁止されました。