碑亭・石台孝経

 歴史陳列室の中央歩道を北に進むと、西安府文廟大成殿跡に出ます。といっても大成殿は取り壊され、現在は広場になっていて、その面影すら感じることはできません。むしろ真っ先に碑林と金文字で横書された額が目に飛び込んできます。
 この豪華な重層の小亭こそ碑林のシンボル、いわゆる「碑亭」です。ここは重点的に補修されているようで、建物自体は変わりませんが、訪れるたびに、軒下の壁の模様の微妙な色の違いを感じます。もっとも色褪せしたところを補修しているので、直した色の方が本来の色でしょう。この碑亭の真ん中に《石台孝経》が収められています。
 「孝経」とは、中国の儒教倫理の根本をなす、孝について説いた書物です。その作者は、古くから孔子の弟子の曽子と伝えられていますが、事実はその弟子によって完成したものと思われます。その叙述は、曽子と孔子の問答の形で、最初に孝の根本義を、つぎに天子から庶民に至るそれぞれの階級の孝の実践の具体的内容を、最後に孝の徳の偉大さを述べています。
 しかし、春秋・戦国時代を経て、秦の始皇帝34〜35年には、焚書坑儒の厄が起こり、儒教の書籍を焼き、儒者も生き埋めにされたりしました。孝経も当然その例外ではありませんでした。こうして、そのころまで盛んだった聖道の研究は廃滅の難に遭遇し、一時的に世の中からあとを絶ってしまいました。
 その後、前漢の第6代景帝の第3子で儒学者でもあった献王に、顔芝の子が「孝経」を奉りました。この「孝経」は、当時の通用書体であった隷書で書かれていたことから「今文(きんぶん)孝経」と呼ばれています。
 また、前漢の第7代武帝の末に、魯の共王がその宮室を拡張しようとして、孔子の旧宅を壊したところ、壁の中から「尚書」「論語」「孝経」など数10篇を得ました。この孝経は周代の文字で書かれていたことから、これを「古文孝経」と呼んでいます。
 「今文孝経」には鄭玄(ジョウゲン)の注があり、「古文孝経」には孔子12世の孫、孔安国の注があって、漢代にはこの二つの書が用いられました。
 ところが、梁末の戦いで「古文孝経」は亡佚してしまい、その後200年ほどは世に見えなくなります。それを隋の文帝の開皇14年(594)に秘書監の王劭が長安で発見し、劉シツに送致しました。
 そこで劉シツは自注を作って民間にこれを講じていましたが、やがてそれが朝廷に伝わり、劉注とともに国学に建てられました。やがて唐の第6代玄宗の時代に至り、この劉注をめぐり、論議が盛んとなりました。そこで玄宗皇帝は、開元7年3月、詔して諸儒を集め、是非を正させましたが、容易に決しませんでした。
 そこで玄宗は、自ら「今文孝経」を主として、広く諸家の注解の良いところを取り入れ、開元10年(722)、「開元始注」を作り、訓詁の学に通じた元行沖に命じてその疏を作らせ、天下に頒布しました。これが「御注孝経」です。
 これから20余年、天宝2年(743)に至り、玄宗は「開元始注」の不備を訂補した「天宝重注」を作りました。天宝3年、天下に命じてこの重注を家ごとに蔵させ、さらに天宝4年、これを玄宗自ら得意の隷書で書き、石に刻して国子監に建てました。それがこの孝経で、石造方形の高さ20pあまりの碑座のうえに建てられたことから、《石台孝経》と呼ばれています。
 碑は、光沢のある黒大理石の三角柱を四つ合わせ、四面に刻されています。字面の縦は300p、横120p、上部の蓋石を合わせるとその高さは370p余りで、西安碑林で最も大きな碑です。
 第一面の上部には、方額があり、それには当時の皇太子(後の第7代粛宗)の書で「大唐開元天宝聖文神武皇帝注孝経台」と4字4行に16字が篆書で刻されています。
 方額の左右には、瑞獣をレリーフし、上下には巻雲幡龍紋が施され、さらにその上に蓋石を置き、蓋石の軒にあたるところにも巧みな雲紋を幾重にも彫刻し、頂きには山岳様を刻み、碑底には10pばかりの幅で四面に蔓唐草が彫刻され、荘厳華麗なまとまりを成しています。このような碑は、前代までにはなかった斬新な形式で、彫刻も独創的で、唐代の精華を代表する貴重な遺品です。
 この碑は、四面環刻で、第一面から第三面までは1行55字の18行、注は小字で1字分に4字の割合で刻されています。第四面は7行目までが第三面からの続きで、その左側は上下二段に分け、上段には上表と批答を、下段には、この碑の建立に参画した45人の名が四段に刻されています。上表は、当時銀青光禄大夫国子祭酒だった李斉古(リセイコ)が、「特に石台を建てて孝経を刻したものが完成したので、上下二巻に分装して奉献する」といった内容を、行書小字で書いたもので、9行300余字からなっています。
 批答は、玄宗手書の草書大字で、3行に刻されています。その文は「孝は徳の本、教の曲って生ずるところである。だから親しく自ら訓注し、将来に垂範する。今石台孝経を建てる功を終えたのも、卿が善くつかさどったからである。進むところの本をみて、深く用心を嘉みする」と述べています。
 ここに載せた写真は昭和53年、私がここを訪れたとき撮影したものです。碑頭の部分を見ても、まだ鋼鉄の柵がされていません。現在は、ただでさえ光沢のある石が、ガラスで覆われ反射してみづらくなっています。第四面の45人の氏名の後に見える9行は、明清時代にここを訪れた人々の心無き落書き(刻)です。こうしたことから、保存管理の上ではやむを得ないのでしょうが、見学者のモラルを問いかけているようにも見えます。
 石台孝経の本文と注は、古くから玄宗の御書といわれていますが、疑問もあります。しかし、ふくよかでゆったりし、艶やかなまでの美しさがあります。日本ではこうした隷書を嫌う向きがありますが、唐代の傑作であることに間違いありません。
 なお、本文中の「民」「治」の字は、太宗李世民・高宗太子治の名前に遠慮して、最後の一画を書かずに省いています。しかし、現代人がこれを真似して、一画を省略して書くのは誤りと思います。