景龍観鐘

 長安城内に、唐の第4代中宗(高宗の第7子)が景龍年間(707〜709)に創建した道観がありました。道観とは、後漢の張陵を開祖とする道教の殿堂をいいます。そして、景龍年間に創建されたところから、「景龍観」と呼ばれました。
 その後、第6代玄宗皇帝は、開元29年に老子の像の夢を見たことから、その像を天下に求め、3尺(約93p)の老子の玉像を得ることができました。そこで、これを景龍観の大同殿に安置し、その吉祥を記念して「景龍観」を「迎拝観」と改名しました。
 その三層の高楼には大きな銅鐘が吊されていました。その銅鐘を、道観の名を付して《景龍観鐘》と呼んでいます。
 この鐘に刻されている《鐘銘》によれば、鐘は、唐の第5代睿宗の景雲2年(711)に鋳造・作銘されました。
 鐘の高さは243p、周囲515p、直径165p、厚さ15p、重さは「銘文」によると12,000多斤とありますから、およそ6トンという、稀にみる大鐘です。
 《景龍観鐘》は鋳造された時の年号をとって《景龍鐘》とも呼ばれています。この鐘は、もともと長安の晨鐘として、晨暮を司るために造られました。
 清代世祖の順治年間(1644〜1661)に建てられた《順治碑》によると、その鐘の音は、順治のころまで城内外に奥ゆかしく響き渡っていたとあり、千年近くもの長い間、朝暮に撞かれ親しまれてきました。
 しかし現在は、小亭の丸い二重の石台の上に置かれていて、その幽玄な響きを聞くことはできません。
 鐘の表面は3段6列の18コマに区切られています。その一番下の段の中央に《鐘銘》があり、他のコマには鶴・迦陵頻伽・龍・瑞獣・獅子などが、薄肉彫りに彫刻されています。
  《鐘銘》の大きさは、縦66p、横71pで、1行17字の18行に292字が楷書で書かれています。1字は縦が約3.2p、横が約3.5pの方形の枠の中に、適度の余白をとって刻されています。
 文中の第5行目に、「朕」とあり、睿宗の御撰と解ります。また、その書も、書法から見て、睿宗の御書であることは、疑いないといわれています。現在一番信頼できる金石学の研究書『金石萃編』でも、睿宗の御書としています。
 この銘文は楷書ですが、ときには意識的に八分の古意や篆書の書法を用い、あるいは歐陽詢・虞世南の書法や、奇異な遊戯的な飛白体に通じるような破格な書き方もしています。
 例えば「之」ですが、他の「之」は初唐を代表するような謹厳な楷書ですが、右の写真に見える「之」は、第1画の点や第2画の起筆のところを、ことさらに鳥の頭のような格好に書いています。さらに第2画の転折と第2画と第3画の接筆のところを、ともに丸く交差させて第3画を右に延ばしています。これなどは、奇異で遊戯的な文字の代表的な例です。
 こうした一種の遊戯的な書き方は、六朝の墓誌などにも同じような例があることから、古くから行われていたと思われます。
 全体としてこの鐘銘の書は、変化に富んだ力強い表現であるとともに、いろいろな意味で、当時の楷書としては興味深く、異色な作品といえます。
  《景龍観鐘》は、唐代宝貴の芸術遺産であり、中華民国41年(1953)碑林に移置されました。