BC221年〜BC206年

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「編年紀」竹簡
1957年湖北省雲夢県睡虎地秦代11号墓出土 長さ23.1〜27.8p 幅0.5〜08p
 「編年紀」の竹簡は53本あり、秦の昭王元年(紀元前306)から秦の始皇帝30年(紀元前217)までの90年間の大きな出来事を記載しており、その中に秦が6国を併呑した重要な戦役があります。


陽陵虎符
長さ8.9p 高さ3.4p
 これは皇帝が陽陵に駐屯し、同地を守備する将軍に渡した虎符であり、真ん中から2つに分かれます。左右2つの半符にはそれぞれ「甲兵之符、右在皇帝、左在陽陵」の12字の金字が象眼してあります。左右2つの半符を照合し、間違いのないことを確かめてからはじめて出兵することができました。



秦権・銅量

銅権
 秦の始皇帝は、前221年に天下を統一すると、文字や車軸の統一を行うと共に度量衡の統一を行いました。この時、全国に頒布されたと考えられる度量衡の標準器がこれまで多数伝えられ、また出土しています。
陶量

「八斤」銅権 
 
 器の外側に、始皇帝が26年の天下統一時に発布した詔書の文章が押印されています。印は1印4字で、全部で10の印が用いられています。その書体は、きっちりと整った典型的な篆書です。ただし、「皆」の字形は漢隷に近く感じます。
 文中の「丞相状・綰」とは、『史記』秦始皇本紀にもみえる、丞相の隗状と王綰のことです。
【釈文】廿六年、皇帝は尽(ことごと)く天下の諸侯を并兼し、黔首は大いに安じ、号を立てて皇帝と為す。乃ち、丞相の状と綰に詔す。法度量の則の壱ならず歉疑ある者は、皆明らかにして之を壱にせよ、と。


小篆体12字磚
長さ30.8p
幅26.7p

 煉瓦に「海内皆臣、歳登成熟、道母飢人」の銘文があります。


秦始皇詔版 小篆体12字瓦当


琅邪刻石
秦の二世皇帝元年(前209)の刻
伝 李斯の書
高さ129p 幅67.5p 厚さ37p

 『史記』によれば、始皇帝はその27年(前222)より地方を巡幸し、28年に嶧山・泰山・琅邪台、29年に之罘、32年に碣石、37年に会稽にそれぞれ石を立てて、秦の功徳を称える文辞を刻しました。のち二世はその元年に東方の郡県を巡り、始皇帝の立てた刻石すべてに詔書を刻しました。
 清末なお山東諸城の琅邪台上の海神祠の西南隅にありました。光緒26年(1900)、大雷雨で海中に没し、一時その所在がわからなくなりました。
 のち断石いくつかを捜しだし、これを継ぎ合わせて同地の教育局古物保存所に置きました。しかし現在は、この残石のみとなりました。
 書体は標準的な小篆で、その結構の特徴は、直接に「石鼓文」のそれを継承しています。

☆は『中国通史陳列』より転載

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